初音ミクNight〜科学を超えた歌姫〜

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 「初音ミクNight〜科学を超えた歌姫〜」 というイベントを10月12日に札幌で行うとのお知らせをいただいた。正直、まだ初音ミクというものをよく分かっていないのだが、新しい形のコンテンツ創作ムーブメントだと思う。
 ここ1、2年のネットの動きを見る限り、コンテンツのプラットフォームやインフラ面での勝負はだいたい決したのかなという感じはある。いま、ネット企業は携帯電話やスマートフォン向けのサービスを争っているところだろう。
 そんなわけで、ようやくこれからコンテンツの中身が問われる時代になってくるのではないかという気がしている。その際、重要なのはニコニコ動画や初音ミクのように参加すること自体が楽しいと思わせる仕掛け作りだろう。
 CGMの世界というのは、あくまで自律的に、自然発生的に広がっていくものでなくてはいけない。これからは、インターネットや携帯だけでは得られないような体験を、いかにユーザーに提供できるかという視点が大事になってくるのではないか。


サイエンス・カフェ「初音ミクNight〜科学を超えた歌姫〜」
問い合わせ先:cafe.miku@gmail.com

 札幌で生まれた音楽制作ソフト、そして同名のキャラクターが「初音ミク」です。印象に残るツインテールの髪型とキュートな笑顔、透き通るような歌声で、多くのファンを虜にしています。そして、初音ミクの魅力は、それにとどまりません。音楽制作やわたしたちを取り巻くメディアのあり方にも影響を与えているのです。初音ミク現象とは何なのか、音楽と科学技術のスパイラルな関係、ユーザーがコンテンツを創り、それが広く流通するUGC(user-generated content)やCGM(Consumer Generated Media)の可能性、地方発ベンチャーの誇り−。初音ミクの生みの親、伊藤博之さんをゲストに、会場の皆様の質問を交えて進めていきます。

 また、「初音ミクのここが好き!」「伊藤社長に質問!」といったメッセージを受け付けます。アドレスは、cafe.miku@gmail.com

日時:10月12日(日)午後6時〜7時30分(開場:午後5時30分)
場所:sapporo55ビル1階インナーガーデン(紀伊國屋書店札幌本店正面入口前)※札幌市中央区北5条西5丁目
定員:100人(座席は約70席です)
参加費:無料(申し込み不要。当日、直接開場へお越しください)
主催:「初音ミクNight実行委員会」
協力:北海道大学科学技術コミュニケーター養成ユニット(CoSTEP)

 ゲスト 伊藤博之さん(クリプトン・フューチャー・メディア代表、北海道情報大学客員教授) 北海道大学に勤務の後、1995年7月札幌市内にてクリプトン・フューチャー・メディア株式会社を設立、代表取締役に就任、現在に至る。アメリカ、ヨーロッパなど世界各国に50数社の提携先を持ち、100万件以上のサウンドコンテンツを日本市場でライセンス販売している。会社のスローガンは、『音で発想するチーム』。DTMソフトウエア、携帯コンテンツ(着メロ/着うた)、ボイスメールサービス、サウンド配信サービス、コンテンツ検索など、音を発想源としたサービス構築・技術開発を、フラットな社内体制のもと日々進めている。「初音ミク」の開発会社としても知られている。1965年生まれ。北海学園大学経済卒。北海道情報大学客員教授も兼任。

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マスメディアの行動原理

 忙しくて更新が滞りました。失礼。
 さて、自民党の総裁選なんだけど、福田政権の負のイメージを誤魔化すお祭り騒ぎになぜ、マスメディアは一役買ってしまうのだろうか。もちろんこういう人事系の話に、世間は強い関心があるから、盛り上がるのは当然だとは思う。だが確実に言えるのは、マスメディアというのは、こういう毒にも薬にもならない不特定多数へ向けたネタが好きなのだ。

 例えば環境問題なんかも、やってて視聴者からクレームが来たり、自民党や企業からおおっぴらに怒られたりすることがないから、マスメディアにとってはやりやすい。要するに総裁選も環境問題もネタとして安牌なのだ。そのため余計な危機感を煽ってまで、お祭り騒ぎにしたがる。環境省などは、そこをうまく予算獲得に利用している。

 ただし、いま団塊の世代がリタイアして、冗談抜きにクレーマーが激増しているので安牌に走るのも無理もないかもしれない。暇なのか、くだらないことでしょっちゅうコールセンターに電話をかけてくるしね。こういう圧力って結構バカにならなくて、当然、上層部はクレームが来ない毒にも薬にもならないネタを選びたがる。

 それから大きいのは、横並び意識。本当はワーキングプア問題も最初はやりたいと思ってなかっただろうが、NHKスペシャルが火をつけ、日テレがネットカフェ難民で大反響を巻き起こして、結構ウケるんだということが分かってくると、他社もやってるし、そういう空気が出来ているからと、企画も通りやすくなり、どんどん真似し出す。

 要するに、企画を通す上層部なんて、それほど厳密に社会を観察して議題を設定しているわけではない。イワシの群れが一斉に身を翻すように、適当に周囲にあわせて、リスクを負わないように動いているだけだ。悪の総統ミスターXが副調整室みたいなところから指令を出しているわけではなく、その中心には何もないのだ。

 だから、彼らは受け手が限定された個別具体的なネタは嫌がる。ケースバイケースで判断して、自分の頭で考える必要があるからだ。しかしこれだけ情報過多で利害関係者が多様化してくると、マスへ向けてのメッセージは非常に困難になってくる。いや、もはやマス・大衆などという均質な人間集団は幻想でしかない。

 自民党内部をとってみても、それぞれの総裁候補の裏側で支持している連中の利害は一致しておらず、片方をたてれば片方が立たないゼロサムゲームのようなものだ。環境問題も地球を守ることで救われる人もいれば、短期的には損をする人も多数いる。もはや、古舘伊知郎がしかめっ面で語りかける「国民」などというひとくくりの利益共同体はいない。

 しかしマスメディアは、そういう受け手の多様化に対応できていないから、未だに、いもしない「国民」や「大衆」に向けてメッセージを送り続けている。だから自民党総裁選や環境問題のように、「国民」全体に向けて発信できるテーマは大好きだ。お笑いも旅番組もグルメ番組も、彼らの頭の中にだけいる妄想の大衆へ向けての、予定調和のメッセージだ。

 そしていま、マスメディアは国民全体の仮想敵として「官僚」を設定しているようだ。ある面正しいともいえるが、本質的には間違っている。いま本当に利害が対立していてゼロサムゲームのさなかにあるのは、何の力も持たない若者と、既得権益を離さない高齢者である。マスメディアは知って知らずか、その構造を無視しようとする。

 自分の脳内にある安定した「国民社会」の秩序を壊したくないからなのだろうが、何度も言うようにそんなものは幻想である。これからマスメディアは没落し、経済紙やローカル紙、世代別の雑誌など、ターゲットがはっきりしていて小回りのきく小さな組織の方が生き残る社会になるのかもしれない。

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最近思うこと

 オヤジくさくて恐縮だが、最近過去を振り返ることが多い。私の場合、自分の現状を顧みたり、短期・長期目標を設定するときに結構年齢や周期を気にするので、今は自分にとってまさに転機なのだろう。前の転機は、大きな挫折を経て、新卒で入った会社を辞めた25歳の時だった。あれから10年以上たった。何を得て、何を得ることができなかったのだろう。そろそろ小まとめをする頃にさしかかっているのかもしれない。

 ありがたいことに、いろいろ声をかけていただいている。今の会社もそうだし、取引先もそう。何と驚いたことに、このブログを通したものもある。失敗や反省することも多々あったけど、自分の10年を評価してくれる人が確実に存在してくれていることに安堵し、素直に感謝している。そして未知の分野に飛び込むのか、さらに地歩を固めるべきなのか、思いが揺れ動いている。

 今まで取材をしていてもっとも心躍った瞬間はいつだったかなと考える。詳しくはいえないが、とある川を僕らはボートで疾走していた。その向こうにある、今まで世界で誰も見たことが無かったものを、確かめにいこうとしていた。その時、僕はテレビの仕事を忘れ、完全に気分が昂揚してまるで16世紀の探検家にでもなった気分でいた。空を見上げると、満天の星空が広がっていた。

 残念ながら、そこには何も無かった。しかし、その瞬間の充足感は忘れようにも忘れられない。実際、その後はノイローゼになるほど、この取材で苦しむことになるのだが、あれが僕にとって、いま思えば頂点だった。もっともっと自分は活躍できると思っていたのだが、こればっかりは時の巡り合わせのようなもので、寂しい話だが、もうあんな充実感は自分に訪れないのではないかと思っている。

 ただ思うのは、私にとっていつも心躍るのは、未知の世界へ飛び込んでいく時だ。学生時代に、重い荷物を森の中に置いて、ほとんど身一つでネパールとチベットの国境までヒマラヤ山中を歩いたことがある。未来がどうなるか分からない、いやむしろその状況を楽しむ気持ち。今の職にとどまるとしても、違う職場へ行くにしても、この気持ちを忘れなければ、きっとまだ人生を楽しむことができる。

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所有という概念

 かつて森の中で狩猟採集民と一緒に生活したことがある。彼らは家電製品などを与えてもあまり受け取ろうとしない。いずれ壊れた時に、森の中にある物では補修できないことを知っているからだ。食べられるものやタバコなどは受け取る。しかし、決してありがとうとは言わない。初めはそのそっけない態度に当惑し、何か割り切れないものを感じる。

 やがてそれは彼らに「所有」という概念が無いからだと知る。物は、常に持つ者から持たざる者へと分け与えられるべきものであり、森の生活ではそれが当たり前だからだ。物は所有(ストック)すべきものでなく、回り物(フロー)なのである。物を持つ私が、彼に分け与えるのはごく自然なことであり、何ら礼を言う必要は無いということになる。

 本来お金の流れも、そういうものなのかもしれない。誰かが欲を張ってフローを止めると、それは膨張し、行き場を求めて確実な市場を求めてなだれこむ。結果、多くの人間が不幸になる。物やお金は、それを必要とする人の間をぐるぐると巡ることが、最も理にかなっているのかもしれない。経済におけるお金は、人間でいう血液なのだと改めて思う。

 インターネットでいうコピーフリーという概念も少し似ているかもしれないと思った。コピー制限という堤防で、所有している権限を守ろうとしても、濁流のようなインターネットの力に飲みこまれいずれ決壊する。それは自然なことなのだ。今、情報の世界で初めて、所有という概念が崩されようとしている。だが、その先に何があるのかが見えない。

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iPhoneと日本製品の違い

 僕はWillcomのスマートフォンを前から使用していて(僕自身はすごく気に入っている)、iPhoneを実際に使ったことはない。店頭でいじっただけの体験で言うのも何だが、iPhoneのようなデバイスは日本のメーカーからはなかなか出てこないように思う。機能面だけを見れば、私のひいき目もあるだろうが、willcomやイーモバイルの方が、携帯インターネット端末としては優れているだろう。だが、このように人々を熱狂的にさせる種類のプロダクトは、日本のメーカーからは出にくいと思うのだ。

 iPhoneには、多少の機能を犠牲にしても、こういう端末を作るんだ、携帯デバイスの未来はこうなる、といった信念や思想のようなものが感じられる。それは個人の強烈なリーダーシップなくしては生まれない類の製品ではないかと思う。前から思っているのだが、あーだこーだとうるさい船頭が多い体制では、良いものは生まれない。最後はたった一人の強烈な理想や哲学が、すべてを決める。iPhoneという製品からは、そんなシンプルな意志を感じるのだ。

 すでにiPhoneの欠点をあーだこーだと指摘している方は多いが、おそらくこのデバイスを気に入っている人の耳にはその批判は入らないであろう。この製品を生み出した人物と、受け取った人物は、同じ波長で共振していて、少々の欠点には目をつぶっている。機能的に劣った部分はこれからいくらでも改善される余地はあるが、おおもとの設計思想は後から変更できるものではない。この根っこの部分を共有していれば、にわかファンは別として、これからも支持されるだろう。

 日本では、個人の意志とか理想といったものは、周囲から寄ってたかって徹底的につぶされる。私も10年以上、テレビ局で番組制作をしてきて何度もぶつかった壁だ。妥協したり、主張したり、あの手この手で自分のやりたい方向に持っていくのは相当骨の折れる作業だ。最近は、もう多くのプロデューサーやクライアントとのこうしたすりあわせ作業に若干疲れ気味だ。というかもうあきらめて、自分を押し殺し、最初から自主規制していると言っていい。多くのメディアの現場も同じだろう。怖いのはそうこうしているうちに、最近何か自分が空っぽになってきているような気がすることだ。ちょっと焦っている。

 想像でしかないが、おそらくは多くのメーカーで新製品を出す時も、同じような壁があるのではないかと考える。アップルとよく並び称されたSONYも、最近は元気が無い。久夛良木氏のような人物をいかに多く社内に抱えることができるか、何十年も先を見据えて、個人のイマジネーションをつぶさないような人材投資ができるかどうか、それがこれからの課題だろう。しかし、こうした日本社会のありようは、文化的風土の問題もあって、一朝一夕で変えられるものではない。

 まあ、僕は自由にカスタマイズできて、利用料金も安く、地方でもどこでもネットにつながるwillcom端末がすごく気に入ってるし、必ずしもアップル派ではないのだけど、こういう高付加価値製品へシフトしていくしていくべきだとは思っている。しかし、それには文化の問題もからんで、難しいなと改めて思っているわけだ。確かに私も含め、多くの人間には才能は無い。ただそれを最初から殺してしまうような風土が日本の閉塞状況を作り、息苦しくしている。そこで一つ、誰でもすぐにでも実行できることを提案したい。

 それはほめて育てること。子供でも部下でも、とにかくほめて良い部分をのばすように、一人一人が意識して実行すれば、少しずつ日本は変わっていくのではないか。「何だそんなくだらないことか」「そんなことをするとつけあがるだけだ」「自分が若い頃は歯をくいしばって耐えた」。そう思ってしまう人は、相当重症の日本病だ。世界を変えるのは多くの場合、たった一人の強靱な意志だ。それを裏付けるのは、自己肯定と揺るぎなき自信である。それを育む土壌は、ポジティブな風土からしか生まれない。一人一人の意識が変わらないと社会は変わらないと思う。

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枯れ葉散る…

 漫画家・赤塚不二夫が亡くなった話をしていて、昔よくみたバカボンのアニメの哀愁漂うエンディングテーマが気になった。どんな歌だったっけ?確か、枯れ葉舞う?散る?youtubeで調べてみた。

↓この曲だった。懐かしい。歌詞も以下に。
http://jp.youtube.com/watch?v=AUeP831errg

元祖天才バカボンの春
赤塚不二夫 作詞/渡辺岳夫 作曲

枯葉散る 白い テラスの午後3時
じっとみつめて 欲しいのよ
特別の愛で ふるえて欲しい
四十一歳の春だから
元祖天才バカボンのパパだから
冷たい目で見ないで

 西からのぼったお日様が~♪とかタリラリラ~ンのコニャニャチワ~♪という有名なオープニングと違って、何かやけに暗くて不気味なエンディングだったのを覚えている。途中でバカボンのパパの生首が横たわっていて、その横にバラが置いてあるという、シュールな映像が、幼い頃見るたびにいつもドキっとして、恐かった。でも何か気になるというか、心にひっかかるエンディングだった。

 先の2つのオープニング曲とは違って、これに関しては赤塚不二夫の作詞だったようだ。途中、パパの生首が横たわっているシーンは、明らかに死を印象づけるカットだ。生に満ちあふれたお日様のようなキャラクターと、エンディングで示される死のイメージは表裏一体である。そこにはギャグ漫画家・赤塚不二夫の心象風景が投影されている。

 明るいドタバタ劇が終わった後の、哀愁漂うエンディングテーマに、始まりや生の裏側に、終わりや死が必ずあることを、子供ながら潜在的に感じていたのかもしれない。昔の作り手たちは子供が分かろうが分かるまいが、全く気にもかけずに自分たちの美学を貫いていた。しかし、我々も知らず知らずのうちに背伸びをし て、大人の匂いをかぎつけていたのだろう。

 作り手たちが自由に自らの世界観を描いていた60~70年代の漫画が、私は非常に好きだ。バカボンやデビルマン、ルパン三世、ゲゲゲの鬼太郎などを、幼い頃主に再放送で見ていた。あのときはよく理解できなかったが、今にして思えば何かが心に深く刻まれていたのだろう。だから赤塚不二夫の死に際して、四半世紀ぶりに、この歌が、記憶の奥底から甦ってきたのだ。

「これでいいのだ」と明るく言い切る時のバカボンや赤塚不二夫の目は、おだやかだが、決して笑っているわけではない。単なるユーモアだけでなく、絶望を伴った乾いた達観を感じる。タモリが弔辞で言ったことがまさに本質を突いていると思われる。タモリは弔辞を読んでいたのではなく、手にもっていたのは白紙だったとも報じられている。

 あなたは生活すべてがギャグでした。ギャグによってものごとを無化していったのです。あなたの考えは、すべてのできごとを前向きに肯定し受け入れること です。それによって、人間は重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後の関係を断ち放たれて、そのとき、その場が異様に明るく感じられます。それをあなたは見事にひとことで言い表しました。すなわち「これでいいのだ」と。

 本当に相手のことを理解している人間にしか言えない、すばらしい別れの言葉だったと思う。合掌。

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氷河期世代にもできること

 私は、バブル後の就職氷河期世代のトップバッターで、もういいおっさんである。いま20代後半の氷河期世代諸君もあっという間におっさんになる。それはもう、驚くくらいあっという間だ。そして今現在の私もそうなのだが、近親者の死と誕生が、否応なく迫ってくる。愚痴っていたって、人生の列車は残酷なくらいに時間厳守で前へ進んでいく。

 自分が抜き出した秋葉原の連続殺人犯の書き込みを時々読み返す。社会との関わりは今のところ不明だが、無差別殺人は繰り返されている。幸い身近にせっぱ詰まった人間はいないが、私はかつて親しくしていた大学の同級生を自殺で亡くしたことがある。何もできなかった、そして葬儀にさえ逃げて顔を出さなかったことを今も悔いている。

 社会から疎外された若者たち。個人に責任を帰すべきケースもあるだろうが、社会構造がロストジェネレーションを生み出したのは間違いない。少なくとも上の世代は若い者を育て新しい日本を託すよりも、自分たちの目先の利益を望んだ。そして今、その矛盾を、途上国から移民を呼び込むことで帳尻あわせしようとしている。氷河期世代はこの状況を指をくわえて見ているだけでいいのだろうか。

 もちろん移民はすでに日本社会に欠くべからざる存在になっているし、この潮流は避けられない。むしろ受け入れるべきだろう。だが移民が当たり前のように社会に居場所を見つけていくにつれ、ますます氷河期世代は社会から疎外されることになる。ポストロスジェネ世代も一時の就職活動が楽だっただけで、その後も安泰ではないという意味では、氷河期世代と同じ地平にいる。

 とはいえ、簡単に白旗を上げるわけにはいかない。学歴が無くても、職歴が無くても、唯一若い世代にできることがある。
 それは、日本人を産み育てることだ。NEETやフリーターにだってできる。日本語をしゃべり、文化を受け継ぐ者を育てることまで移民に肩代わりさせることはできない。その事実から上の世代は目を背けているが、本来このような重要な能力を有した世代の発言権が無いに等しいのはおかしい。いま地方は経済もコミュニティも崩壊している。一次産業も高齢化は限界に達していて20年もすれば、壊滅するだろう。

 いま日本人の若者は、地方に住んで、一次産業に就き、3人以上の子供を育てて、地域で担うべき役割を負っていれば、それだけで年収500万円は保証されるべき存在だと私は思う。現実にそうならないものかと考えている。少なくとも地方に根を下ろす若者に投資をせず、地方債を出して公務員たちの退職金にあてるような犯罪的行為を許していては、国が滅ぶだろう。

 ただ子供を産んで育てるだけでも、所得を保証してもいいんじゃないかと思う。パチンコに行っている間に我が子を車内に放置するようなどうしようもない馬鹿親もいるが、多くは母や父としての自覚が生まれれば、自然にまっとうに働こうという気にもなるのではないか。子供に対して恥ずかしい人生は送れないと思うものだ。そういう意味でも、まずは家族を作るだけで所得をある程度保証してもいいのではないかと思う。

 社会に国家に、愚痴ったところで、どうにもならないことは骨身に染みている。こういう権利は若者自身が自らの手で勝ち取るしかない。おおざっぱに言えば、公的部門や、上の世代の高所得者などに偏在している富を、奪い取るということだ。民主党にそれが期待できないのだとしたら、現状の制度では民主党(または自民党)自体を変えるしかないのかもしれない。日本社会を本当の意味で守ることができるのは、日本人(在日朝鮮人も含む)というアイデンティティを持つ者だけだ。

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快適ワイヤレス生活

 個人的にはiPhoneのような音楽デバイス普及の鍵って、イヤホンにあるんじゃないかと思う(僕自身はiPhoneのユーザーではない)。私も遅ればせながらBluetoothのついた携帯デバイスを買ったので、ワイヤレスイヤホンを購入してみた。買ったのは、モトローラのS9。これがものすごく快適で、よく音楽を聴くようになった。

 前からイヤホンのひもが鬱陶しくてしょうがなかった。よく巻いて整理してカバンに入れたはずなのに、再び出すとなぜかこんがらかっている。これが不思議。どんなに慎重に巻いても必ずこんがらかっている。聴く前にほどく作業が面倒くさくてしょうがない。電車の中でドアや荷物に引っかかって、耳が引っ張られるときもつらい。

 で、ワイヤレスを探してみた。しかし日本ではまだあまり種類や数が無い。受信部を首からぶら下げてそこから紐が出ているイヤホンを店員に紹介された。いや、これじゃあ普通のイヤホンと結果的に同じじゃないですか。今時mp3プレイヤーの本体が小型化して、この受信部と同じくらいになってるのだから、無意味にもほどがあろう。

 そこでカチューシャのような形状で後頭部に固定する、モトローラのを発見。ネットではベッカムが宣伝している。欧米では普及しているようだが、東京ではあまり使用している人を見ない。これだ!と思った。ネットで6000円くらいで購入。これが良かった。下の動画を見てもらえばわかると思うが、この形状でも音量操作や曲のスキップなども簡単に操作できる。音質も良い。もちろん着信して通話に使うこともできるそうだ(やったことないが)。

Youtube S9 review

 ひものストレスが無くなったとたん、急に音楽をよく聴くようになった。過去にもっているCDのmp3化やダウンロードなどもチョコチョコやるようになった。いまipodのCMでイヤホンの紐を引っ張りながら踊っているアニメーションを見ると、時代遅れだなと思ってしまうくらい、いい気になっている。

 私は仕事でインタビューの書き起こしなどもPCからよくやるので、その際もこのワイヤレスイヤホンを使っている。また、PCで音楽やテレビを鑑賞しているとき、少し離れてトイレや洗面所に行っても音はとぎれずについてくるので、何というかこう、集中を邪魔されないという快適さがある。いつも生活のそばに音楽がある感じがする。

 あまりに快適なのでせっかく買った携帯だが音楽プレイヤー専用にしてしまって、前の携帯にSIMカードをさし直して使っているほどだ。しかし残念ながらiPhoneはbluetooth機能はあっても音楽は聴けないのだという。まあ、次に期待といったところだろう。孫社長は今度思い切ってワイヤレスイヤホンをおまけに付けてみたらどうだろう?ポータブルメディアプレイヤーはワイヤレスで使うと、きっと世界観が変わると思う。

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崩壊前夜の狂騒

 いまやってるフジテレビの27時間番組とやらを見た人は、特にネットユーザーでは少ないというか、ほとんどいないと思う。いま事情があって実家にいるので、何となくつきあいで見たのだが、これが恐るべき程度の低さだった。私が高校生だった80年代後半からフジテレビは何も進歩していないのだ。相変わらず、さんまやたけし、タモリなどが出て、面白くも何ともない内輪ネタで品の無い笑いを振りまいている。予算は1/100もないだろうが、あらびき団の方がまだ100倍は面白い。

 19時ごろのたけしがさんまとナイナイの岡村の自家用車を破壊するという企画。これが無惨だった。面白くも何ともないどころか、出演している芸人も引いていた。今田耕司にたけしが車で突っ込むところなど、見た目にも危険で狂気を感じさせるものであり、実際に警察に通報した人もいるのではないかと思った。見ている者もやたらと後味の悪い、ひどい企画だった。小学生でさえ笑わないだろう。さんまも、何というか、今回は本当に楽しくて笑っているような表情がほとんどなかったように見えた。しきりに本人も周りも疲れたばかり連発して、見ていてしらけることこの上ない。

 前夜の鶴瓶と大竹しのぶが雑談しているところにさんまが着ぐるみで割り込むという企画も酷かった。互いに顔が引きつっていたが、その間の悪さが視聴者にも伝わってきた。それにしても今の若い人はさんまと大竹しのぶが結婚していたことさえ知らないのではないか。もうあまりに時代錯誤でひどいセンスなので、むしろフジテレビ終了を見届けたいという気持ちが勝ってじっくり見てしまったほどだ。これほど笑えない企画を連発するとは、フジテレビの制作サイドの劣化が心配になったほどだ。

 バブル前後にフジテレビを引っ張った連中が、あのときから思考停止して脳死に陥っているにも関わらず、いまだに社内にのさばっているのだろう。このような時代錯誤な企画は若手の感性からは“絶対”に出てこない。今更ひょうきん族のネタなんかやって理解できるのは30代~40代のきわめて限られた層であり、働き盛りの年代でこんな番組に付き合っている暇はないだろう。じゃあ、若者向けなのかといえば、10~20代の誰1人、解らないような昔の楽屋落ちばかり連発している。

 これは「あの頃は良かったなあ」「夢よもう一度」というフジテレビ制作者の自慰行為に過ぎない。決して電波に乗せて全国に流すような代物ではない。フジテレビが若者文化を代表していた時代はとうに終焉している。それをこれほど明確に、そして残酷なほどに解らせてくれる番組はない。私もフジテレビの楽屋落ちや悪ノリを中高生の頃楽しんでいた口である。修学旅行では軽井沢や原宿にあった、鶴太郎やタケシ、山田邦子の店に友人たちと行ったものだ。私たちは80年代に青春時代を送り、テレビとともに育った。

  なので、改めてフジテレビ的なテレビ文化そのものが終焉していることを確認したことは、感慨深くさえあった。あまりにも無惨な時代遅れの文化祭だった。本当の終焉はいつ来るのか、それを予言しておこう。それは、ある有名な人気アイドルグループの凋落とともにやってくる。出版社にいる人ならよく知っていると思うが、そのうちの一人が、足の長さを常に画像処理しているのは有名な話だ。彼に対する幻想へのメッキがはがれ、その魔法がとけた時、日本人はようやく目を覚ますだろう。

  大衆メディアとしてのテレビはその主な役割を終えた。今回フジテレビの27時間企画は痛いほどそれを教えてくれた。くしくもアナログ停波が3年後に迫っている。良く言えば、我々に共通の夢を与えてくれたテレビ、悪く言えば、洗脳してきたテレビ。その崩壊前夜の最後の晩餐と思えば、このフジテレビの途方もなくセンスが無く、そして大仕掛けな悪ふざけも理解できる。もちろんテレビそのものは残るが、今のようなメディアの王者としてではなく、ワンオブゼムになる。今回の番組の視聴率はおそらくひどいものだと予想する。それを墓標に刻んで、テレビは崩壊への残り3年を突き進むことになるだろう。

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映画「クライマーズ・ハイ」

 映画、クライマーズ・ハイを見てきた。1985年8月、群馬県御巣鷹山に乗員乗客524人を乗せた日航機が墜落した。あの大惨事を追った地元地方紙記者たちの日々を描いている。詳細はリンクを参考にしてほしい。以下参考。

映画生活(コンパクトにまとめられてる)
http://www.eigaseikatu.com/topics/1402
読売
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/cinema/review/20080704et09.htm
東映(ストーリーに詳しくない人はこの記事は詳しいので読んどくと分かりやすいかも)
http://www.toei.co.jp/movie/details/1174249_951.html

 今も記者の現場とはこういうものだろう。スクープを追っている時は、アドレナリンが出て、1週間不眠不休でも全く気にもならない。僕が新聞社に入った時は阪神大震災取材がもうだいたい終わった頃で、そのときの様子はこの映画に似ていたと思う。

 懐かしく思い出す。現場にこだわり震災関連の記事を1年以上たっても書きまくって、上層部の怒りをかい地方局のデスクにとばされたベテラン。それに殉じてついてきた中堅記者。この未曾有の混乱の中でもともとあった自力をいかんなく発揮し頭一つ抜ける2年目の若手記者。

 震災直後も、震災に関われなかった記者たちの羨望や嫉妬、疎外感はあった。そして現場を切り回した者たちの優越感、栄光がまじりあい、複雑な人間ドラマが繰り広げられた。今にして思えばまさしくあれもクライマーズ・ハイだった。

 クライマーズ・ハイとは「興奮状態が極限にまで達し、恐怖感がマヒする」状態。飢えた猟犬のようにスクープを狙う若手記者(映画では県警キャップに堺雅人)。初めて死体を見て興奮し、紙面に反映されないことを日航全権デスクの悠木(堤真一)になじる若手。迫真の演技だった。

 編集局内の緊張感、臨場感を、素晴らしい編集とカメラワークで表現していた。悠木役の堤真一がかっこよかった。悠木が若手の胸ぐらをつかんで吠える。「お前を調子づかせるために520人は死んだんじゃねえ!」。そして部下の活躍に嫉妬する上司たちを、いつまでも過去の大事件(あさま山荘事件など)の栄光にすがるなと一喝する。

 前回、記者にあこがれる若者のことを書いたが、まさにこれが新聞の現場だ(格好良いとこだけだが)。このときと今が違うのは、記者がデスクに公然と刃向かったり、デスクが部長や編集局長を怒鳴りつけたりするような、闊達な職場の空気だろう。

 ただこれは新聞社に限らないと思う。若手が嫌がっているのは、泥のように働くことや薄給だけではない。老いた者たちが、老獪な支配の網を社会全体に張り巡らしていることにたまらなく鬱陶しいものを感じているのだ。重く灰色の雲が、低い高度までたれこめていることに窒息しそうだからである。

 この映画を見ると、社内にいろいろ軋轢はありながらもまだ記者が輝いていた時代を知ることができる。そして今、日本社会全体が老いたことも実感する。私自身が主人公のデスクの年に近くなっているのも少しショックだったが、悠木が再び、亡き親友の息子と谷川岳一の倉沢の衝立岩に登ろうとしたように、もう一度何かに挑みたくなる。

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